YouTubeで市長選挙公約の帯広の森やその周辺の動画を見たが、ほとんど森や公園そのもののことを言っていなかった。
ただそこに「食」持ってくるんだと。それは「食」の話でしょ。公園とは何か、帯広の森の今までの積み上げ、課題問題は何も言わずに、「植樹したので利活用を考えないと」とほんとに言っていた。まるで植えたらすぐ森になるかのように。
しかも「市民」と話したと言う。その市民も現職も一切自分の手足も目も使っていない。森に関わっていない人間の気分だけでしょう。森の可能性のヒントは、森の管理作業の中にある、そのような成り立ちができてやっと文化が生まれる。収奪の対象として見るなら昔と同じだ、何も新しいものはない。
ほっておけば森ができると思っているのだろう。(特に)植えた森はそうではない。それがわからないのでしょうか。
収奪であったとしても、利用可能となるには十分な資源〜人が利用できる森からの利子〜が十分でなければいけないし、それが管理可能でなければいけない。自然が復元しているかどうかを見極めながらの管理、つまり「順応的管理」が徹底できていない今の状況で、さらに状況を複雑化させてうまく管理できるはずがない。
100%無理とは言わない、やり方はあろう。が、たどり着くまい。 「帯広の森」に限って言えば、いまの行政、管理者、市民の現状では絶対に悪いことになる。もし結果、何もしないことになっても、長短こそあれ、森にずっと関わってきた市民たちはその論議の中で疲弊し、モチベーションを奪われる可能性もある。
森づくりに関わってきた市民を無視してあのような言葉が出てきたのだ。どのような感情になるか、わかるだろう。
森の自然も人的環境も悪化が想定される。
当たり前の森づくりが今までちゃんとできていれば、不可能ではなかったのに。
森や公園の本質について語らないことが「とってつけ」の印象を強くしていることも、こう考える原因だ。
残念だが。十勝人が自然資源を持続的に利用した歴史は非常に少ない。全部壊して好き勝手に利用できるヒトのための土地に変えた人たちだからだ。そしてそれを基本から変えるヒントが「帯広の森」にはあるのに……その価値が見えないのだろうか。
私たちはそのようなヒトたちの「利活用」とやらにさらされても、自然を保ち続ける帯広の森をつくる方法を模索し、実践している。十分に楽しい。