偽科学・陰謀論大好きなケネディ厚生長官(鳥インフル)
ニワトリにインフルエンザワクチンを使用したくないらしい。
もしその通りにするとどうなるか?
鶏舎でインフルエンザを放置すれば、高病原化するだけでなく、変異の可能性を高め自然界や人類への感染可能性を高めてしまうのは、これまでの事例で明白だ。
また、彼の言動はコロコロ変わることがあり、その言い訳が意味不明であることも知られている。そういう意味でも信用できなが、それだけではなく...
これを現実の鶏舎の中でさせるのは常軌を逸している。地域の多くの鶏が全滅するし、そのプロセスで自然界や人間にも感染が広がるだけでなく「感染しやすくなり、高病原性も獲得する」ということだ。つまりさらなる「新型インフルエンザ」の誕生となる。
彼の期待通り、「自然耐性を持つ鶏」がもしいて、その鶏で養鶏をしようとすれば、インフルエンザウイルスは発見されなくなる。インフルエンザをやっつける体でなく、共存する体なのだ。自分にとって無毒なものは、やっつけないからね。
実は自然界ではこれは普通に起きていることだ。多くのカモ類はインフルエンザに強い。それで死ぬのはよっぽどの高病原性なのだ。それが、集団で行動しすることで、糞などを経由し移し合って群れの中で維持される。
これが他の鳥類に感染すると、感受性の高い鳥類では死ぬものが出てくるのだ。病原性は一律ではないのだ。
つまりどうなるか?養鶏が感染源となって、自然界や人間が常にウイルスにさらされ続けることになる。すると、上のリンクにあるように感染しやすく、または高病原性(強毒性)を獲得しやすくなる。
これ、怖くないですか?
犬がもし、狂犬病ウイルスに耐性を持っていたとしたら、その犬と一緒に暮らせるだろうか?帯広だったらエゾリスがそうだったら?牛の口蹄疫がそうだったら?
そんな簡単なことがわからない人物だ。
そんなことがわからないものが、重い責任のあるポジションにいる。
痛い目に遭ってもきっとわからないのだろう、なんとしあわせな人だ...
アメリカ人だけが痛い目に合うわけではない、以前の新型インフルエンザH1N1があっという間に世界に広がって、日本でも修学旅行にいけなくなったりした事実を忘れてないだろうか。
以下に引用
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家禽への鳥インフルエンザのワクチン接種を支持しない姿勢を示している。また、自然耐性を持つニワトリを特定するためにウイルスをニワトリの間で拡散すべきとの持論を展開している。
このようなものに傾倒するメンタルってなんだろうね。自分は二十代くらいまでは面白がっていたけど、そういうことをしなかったのかな。
「帯広の森を虫屋さんと歩いてみたら…ver.2 」
自然観察会のお知らせです。
前回に引き続き、森の掃除屋さん、つまり生物の死骸を食べる虫たちを観察します!
● 日時 2024年7月15日(日)9:30〜11:30 ※ 9:00から受付を始めます。
● 場所 帯広の森(西21条南6丁目;栄通りを挟んで『森の交流館・十勝』西側の森の中)
※ 目印はエゾリスの絵の旗です! 入口に立てます。
●どんなことするの?
昆虫に詳しい学芸員さんをお迎えして、森の掃除屋さん(腐食性昆虫)を中心にじっくり観察します!
● 料金 100円((傷害保険料として) ← エゾリスの会会員は不要です。
● 定員 15名(先着順)
● 申込 0155-33-4223(エゾリスの会事務局;三日市 方) または、info@ezorisunokai.jp
ezorisunokai.jp
エゾリスの会は「帯広の森」で色々な生物の調査をしていますが、それ以外の生物を詳しく調べている人と一緒に歩くことで、視野を広げて刺激を受け、これからの活動のモチベーションを得たいと考えています。
どれくらい自然林に近づいているのか、今まで知らなかった角度から見ることができる新鮮な感動を、参加の方々と共有したいと思います。
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帯広の森50周年に思う「帯広の森技術」構築のため 林業技術・思想との線引きを
「帯広の森」の出発時は耕作地、目的は自然復元と公園。
林業の出発点は概ね山、目的は木材採取とその持続。治山・環境林。
重なっているのは一部。林業と同じ技術論・思想だけで「帯広の森」が達成されることはないのです。
林業技術・思想だけで「帯広の森」を理解、管理するのは間違いであるという話です。タイトルの通り「帯広の森技術」の構築が必要です。
森に手入れが必要だという市民合意にあたっては、確かに林業は大きな役目を果たしました。森に必要な技術・思想であることは間違いない。しかし、「帯広の森」から多くのことを学んだいま、林業だけで森の理解はできず、進路を誤ると考えるようになりました。
今後、林業技術を必要とする段階はあるはずと考えていますが、あくまで「帯広の森技術」の体系に組み込まれたものであるべきです。
また、森の各造成計画の歴史、森のガイドラインなどを理解されていない方は本文を理解することは難しいかもしれません。
植樹区域がもと耕作地であったことや、その自然復元について軽く考えている人(植えときゃ育つ、そのうち生えてくる?)にも理解が難しいでしょう。
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エゾリスの会の間伐は、とてもゆっくりである。S59東とS61植樹区でおこなっているが、もう20年くらいになる。今回は1本だけ。
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林業が身についてる人は、これを早くいっぺんに除間伐したくなると思う。しかし、地面がもと畑であり、埋土種子など遺伝資源にあまり期待できず、むしろ外来種が待ち構えているような(この事実は調査済み)環境で、「林業伐り」すると、外来種優位→草刈り→在来種の実生も抑制→環境の単純化 という悪循環を招く。林業技術をそのまま適用すると明るすぎるし、いっぺんにやりすぎて調節が効いていないのだ(S58植樹区西エリアなどが典型的)。
日本の林業技術は、平地の畑だったところは前提になっていないし、そもそも自然復元は配慮すべきとされているかもしれないが、おおくは目的ではない。そしてその場所は「山」である。
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「帯広の森」には教科書がない。数百haの元耕作地に森を作ることも希少だが、環境は地域で異なることも大きい。
目標となるべき自然を見て、植えた森の自然を調べ、管理に反応してくる森の様子を見て修正していく「順応管理」が必要になってくる。人間のアクションに対して、答えは「帯広の森」が小出しにしてくる。自然のサインを注意深く読み取ることで得られる情報を体系化すれば「教科書」に近づいていくはずだ。
「原生的自然の森」は、帯広の森の自然を復元したり下支えしたりできるよう、ひたすら自然化を目指せば良い。難しさはあるが、目標はまだはっきりしている。
しかし、人の入り込み、利用の多さによって区分された、「森」と『散開林」はどうだろう。利用しながら一定の自然レベルが自律的に保たれる、これを管理するのは高等技術だろう。自然の衰退を招く可能性も大きいし、そもそもモニタリングしなければ衰退しているかどうかもわからない。

原生的な自然を目指すよりも、利用しながらある程度の自然を維持するのはより困難な課題がある。本州の広葉樹の薪炭林(いわゆる里山)は、地面が山なのだ。強い再生力を人の力でちょうど良く留めている。しかし「帯広の森」の場合は地面はもと畑だ。埋土種子に期待できないことはエゾリスの会で実験済みだ。現状のままでは里山と同じ考えは通用しない。
自然の復元だけでなく、公園利用・管理の技術を「帯広の森」用に組み立てる必要がある。もりろん管理上生じた資源の活用があってもよい。しかしこれを野放図に市民任せにしていいはずがない。どうかすると<準施業林>であるかのような認識があるような「林の姿」を見かける。これが今後、行政の役割が増える理由だ。
利用度が高いエリアの場合、林業の施業林と似た姿になるかもしれないが、そこは概ね「山」である。伐木や表土撹乱に対する反応は「帯広の森」とは全く異なる。
元畑で同じ撹乱をすれば、翌年は外来種の繁茂が始まり、かなり気を遣って管理しなければいけない。これは、エゾリスの会が航空法伐採地の管理で経験している。元畑の自然再生能力は極めて低く、一律に刈ってしまっては次世代の木も草本もなく、イネ科と高木だけのがらんどうの林になってしまう。このような林は「帯広の森」にいくつも見られる。その調査、評価はできているのだろうか?
終着点は施業林でないこの森を施業林の数字で伐るということはどういうことなのか?自分の認識を森に押し付けてしまっているのでは?そんな「恐れ」を忘れているのはないか。
頭ではわかっても、「身についた技術」を変えることは難しいが、「帯広の森」と「林業」は一部の技術が共有されているだけで、向いている方向はまるで別物だと認識すべきだ。
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今後、「原生的自然の森」だけでなく、「森」「散開林」と管理が必要な範囲は広がっていく。ここに再び、林業技術の出番が来るかもしれない。散開林はどちらかというと造園技術の色が濃いかもしれない。しかし、ここにこそ「帯広の森」で培ってきた(はずの)自然の再生維持のための「帯広の森技術」が既存技術の軸となって機能することが必要だと思う。
ここにの行政のしっかりした指導が必要と考える。市民団体にその作業を専ら担わせるのは、難度が高すぎると思うからである。
市民団体に森をまかすリスクについては、エゾリスの会が森で初めて管理活動の申請をした時に、当時の市の担当者の方から繰り返し伝えられ、そして、まず調査して論文を書くように伝えられたのだった。そしてそれは果たされ続けている。
だから、管理者はそのけじめを守り、責任を遂げることが、「帯広の森」事業を成すために先ず必要なことだと私たちが思うのは自然なことだろう。
行政の方から要望して決めた「森づくり協議会」が長年ほとんど稼働していない状況のまま、「帯広の森」に関する事業が決まっていく現在のような状態のままで、それがうまくいくとは思わない。
『帯広の森における植栽林の構造と17年間の変化』
帯広百年記念館紀要 第42号(1p~17P)
このシリーズは今後も続く予定である。
注目は「伐りすぎ」の場所が自分たちの管理のエリアにもあったという点。密度が低下している割には木が太っていない範囲があるのだ。これは昔に計測していた成果である。他の森づくり団体でちゃんと計測しているところがあるのだろうか。エゾリスの会ですら伐りすぎがあるのなら、他のところはどうなってしまっているのだろうか。



トヨタソーシャルフェス TOYOTA SOCIAL FES!! Presents クリーン北海道プロジェクト 10/15開催
「帯広の森」について学び、その手で十勝の森を再生しよう!
誰でもできる森を自然にかえす活動です!
市民が植えた『帯広の森』。初期の森は数割の針葉樹によってくらさと湿気を保ち、外来種を抑制しながら、本来目指すべきカシワ中心の林を目指して来ました。
エゾリスの会が担当するエリアでは、ここ10年で広葉樹が大きくなり、林床に徐々にオオバナノエンレイソウなど林床植物が目につき始めました。

針葉樹は徐々に役目を果たしつつありますが、急に林内を明るくしないように徐々に減らしつつ、林床を調査し、良い管理のあり方を模索しています。その結果、「帯広の森」のスタンダードな管理のあり方を森から学びつつある現状です。
この中で、管理対象となっているのが、エゾリスによってせっせと植えられたチョウセンゴヨウです。この辺の説明は、ソーシャルフェスの本番に譲りますが、林床も含め、このエリアを十勝本来の森に近づけるため、針葉樹の芽生えを抜いて、広葉樹の芽生えのスペースを作るのが今回の活動です。
つまり、どなたでも森づくりのお手伝いができます。
そのおりに出現した動植物についても多少解説することができます。この機会に、「帯広の森」を知りたい、関わりたいと思う方は、上のリンクより、申し込みください。
下のリンクは昨年のソーシャルフェスのようすです。
間伐の意味と間伐材の使い方
施業(林業)の世界では、売却すれば間伐、そうでないものを除伐と呼ぶのが正式と聞いています。私たちは区別せずに間伐と呼んでいます。「帯広の森」は都市公園ですし、目指すのは森です。林業は目指しません。

*切り口に埋もれた枝の跡。これは「育樹祭」の痕跡です。育樹祭の実施はとても画期的なことだったと言えます。
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林業では、収穫するためのいい木(太くて真っ直ぐな)を作るため、選木して間伐します。しかし、「帯広の森」は「材」は目的ではありません。
「高木層を充実させる」
一見、材を太らすことを目的なようですが、違います。「森にする」ことが目的なのです。高木層の役目はいろいろありますが、一般の方がおそらく思いつかないのは、
「樹冠をつくり、林内を適度な明るさ/暗さに保つ」
ということでしょう。
明暗のコントロールが最重要な役目です。特に、植樹後40年くらいまでは明暗のコントロールと、高木の成長のバランスに腐心し続けると言っても過言ではありません。明るすぎるとオオアワダチソウなど外来種の繁茂を招き、これを制圧しようと草刈りを徹底すると、自然林の林床植物がほとんど生育できなくなるばかりか、次世代の高木も育たなくなります。

慎重に、順応的な管理が必要となります。しかし、人間はつい勢いでやりすぎる。効率を求める。それが「罠」です。我々がしているのは林業ではないのです。
また、区分によって技術的な違いが生じます。
エゾリスの会が担当している林では、「原生的自然の森」が大半ですから自然林を目指せば良いのです。
しかし、それ以外の区分もあります。
帯広の森の森づくりガイドライン
https://www.city.obihiro.hokkaido.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/940/guidelines.pdf
では、人の利用程度によって、「森」「散開林」にも分けられています。特に「森」では人が利用しながらも、いろいろな生物、自然と触れ合えることを目標としています。利用すれば林は消耗、撹乱します。これに負けないように自然を保たなければいけないので、「原生的自然の森」よりも難しい管理が必要となるでしょう。
林床の明暗のコントロールを少し述べただけで、こんなに長くなるのですから、ほかのさまざまなことを読んでもらえるように述べるのは大変です。
しかし、そのぶん、実際の作業には面白みがたくさんあります。あんなにしつこかったアワダチソウが衰退し、オオウバユリやオオバナノエンレイソウなどがいつの間にか花を咲かしているのを見ると、うまく行った!とニンマリします。
エゾリスの会ezorisunokai.jpでは、さらにこれを数値化し自然林へどれだけ近づいているか評価するための調査をしています。


帯広市長選挙 「帯広の森」を見もしない、手足も使わない、森に関わってこなかった人が,そのまま「帯広の森」をいじったらどうなるのか。
YouTubeで市長選挙公約の帯広の森やその周辺の動画を見たが、ほとんど森や公園そのもののことを言っていなかった。
ただそこに「食」持ってくるんだと。それは「食」の話でしょ。公園とは何か、帯広の森の今までの積み上げ、課題問題は何も言わずに、「植樹したので利活用を考えないと」とほんとに言っていた。まるで植えたらすぐ森になるかのように。


しかも「市民」と話したと言う。その市民も現職も一切自分の手足も目も使っていない。森に関わっていない人間の気分だけでしょう。森の可能性のヒントは、森の管理作業の中にある、そのような成り立ちができてやっと文化が生まれる。収奪の対象として見るなら昔と同じだ、何も新しいものはない。
ほっておけば森ができると思っているのだろう。(特に)植えた森はそうではない。それがわからないのでしょうか。
収奪であったとしても、利用可能となるには十分な資源〜人が利用できる森からの利子〜が十分でなければいけないし、それが管理可能でなければいけない。自然が復元しているかどうかを見極めながらの管理、つまり「順応的管理」が徹底できていない今の状況で、さらに状況を複雑化させてうまく管理できるはずがない。
100%無理とは言わない、やり方はあろう。が、たどり着くまい。 「帯広の森」に限って言えば、いまの行政、管理者、市民の現状では絶対に悪いことになる。もし結果、何もしないことになっても、長短こそあれ、森にずっと関わってきた市民たちはその論議の中で疲弊し、モチベーションを奪われる可能性もある。
森づくりに関わってきた市民を無視してあのような言葉が出てきたのだ。どのような感情になるか、わかるだろう。
森の自然も人的環境も悪化が想定される。
当たり前の森づくりが今までちゃんとできていれば、不可能ではなかったのに。
森や公園の本質について語らないことが「とってつけ」の印象を強くしていることも、こう考える原因だ。


残念だが。十勝人が自然資源を持続的に利用した歴史は非常に少ない。全部壊して好き勝手に利用できるヒトのための土地に変えた人たちだからだ。そしてそれを基本から変えるヒントが「帯広の森」にはあるのに……その価値が見えないのだろうか。
私たちはそのようなヒトたちの「利活用」とやらにさらされても、自然を保ち続ける帯広の森をつくる方法を模索し、実践している。十分に楽しい。


どこの大学も「帯広の森」を研究してほしい!
キャンパス内の木を大幅に伐ってどうするかと思ったら、サクラとシラカバを列に植えていた畜大。自分のキャンパスに野生生物の学問を適用出来なかった帯広畜産大学。
実は出来なかったのではなく、その学問がなかったのだ。
動物なり植物なり、そして社会なり、持っていた学問を結んで生かすための学問がなかったのだ。
生物個々は研究できても、これを社会に適用したり、自然を復元したり、景観を評価したりする総合的な学問が実はないのである(だからただの池をビオトープなどと恥ずかしげも無くいうのだ、ふさわしい管理目標も何も無い)。それでは自分らの学問を一体どうやって生かすつもりなのか………それは(野生生物系は)もともと考えていないようだ。
なかったからしょうがない期待するのが間違い、とも言えるだろう。伐採に腹を立てていても、将来の景観(ただの眺めではない)を目標に計画的な提案をした人も非常に少なかった。つまり、学問レベルでは変わらなかった訳だ。
(それにしても、獣医畜産食品系へのハードの手厚さに対して、野生生物系学問への冷たさを感じたのは私だけだろうか。野外のキャンパスを学びの場とする発想を積極的に述べる空気がほとんど感じられなかった。)
昨年のキャンパス内の伐採問題でよくわかった。伐るか伐らないかでなく、(野生生物の学問がある大学のレベルに照らして)たいした考えもなく植え、たいした手入れもなく、伐った後のフォローもあれかい。どんな理念でどんな学問?そこで学んだ学生はどんなレベルになるの?という問題意識を述べる人も稀だった。この辺が実は「帯広の森」の意義と重なってくるのだが…。

その畜大が「十勝の森を考える」という講座を昨年12月に行った。十勝の自然をろくに見ていない内地の研究者に「帯広の森」の真っ当な評価は、いくら優秀であっても無理だろう。どうしたってそれまでの自分の経験尺度で言うしかない。
十勝の平地林は扇状地の上に火山灰が断続的に積もって成り立つカシワ林と湿性林の隣接、内地より早期の皆伐と耕作地化、奥山とほとんど断絶した孤立林、そのことで生まれる自然観と共生的文化の劇的な貧困、そしてこれらが招いた事業化過程から現在における人間の圧倒的器量不足が招いた諸問題……。
などなど……帯広の森はあらゆる面で難解だ。件の講座では、軸となるべき行政や管理作業、調査情報の共有の問題を、いろいろな人の考え方の違いのように思い違いをされているように思われた。ここは公園だから、こうしなければいけないという一線を守らなければ、目指すべき景観は崩壊するのだ。内地の人には400haという大きな自然の公園を作るなんてことは想像できないのだろう。
正直言うがこの畜大の講座は、長年帯広の森で少しずつ森を後押ししてきた私たちにとって、大変迷惑だった。この40年以上、いくつかの調査研究(林床植生の調査そのものは大変重要であった)を除き畜大は直接森を作ったり、帯広の森を全体的に評価するようなことは行っていない。学生をその気にさせたりもしていない。
40年間の自然復元をまじめに追えるなんてすごい機会だったのに…やっていない。。
にもかかわらず、あの講座はなんのつもりなのか?いままでやってきて無いでしょ?なんで?
迷惑である。自分達が似た迷惑をかけられたらどう思うか?
とても無神経だと感じる。こんど。キャンパス内の森のことをやいのやいの言ってやろうか?嫌でしょう?
以前複数の他の大学が「帯広の森」の研究をしない理由として「あそこは畜大さんがいるから」と言っていた。
それは大きな間違いだとわかるだろう。
畜大は「もはや」あてにしてはいけない。彼らにとって重要なフィールドではないのだろう。
なんとも、勿体ない。
「帯広の森」は世界でも最大規模の自然復元、しかも街の隣、大学の隣なのにその気がないんだって!
他の大学の皆さん。畜大に気を遣っているのが本当なら、それは損してますよ。先を争って調査研究の対象にするべきでしょう。
行政もそういう宣伝して胸を張ったらいいのに。どちらにしてももったいない。
